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慢性骨髄性白血病(CML)の情報サイト

慢性骨髄性白血病(CML)発症後年数約10年の河田純一さんの体験記。大学2年生のときCMLと診断され、分子標的治療薬で治療を開始。患者会やNPOの活動など積極的に活動している。CML発症後の治療や副作用とどう向き合い、生活や仕事の不安をどのように乗り越えて生活を送っているのか体験記を紹介したページです。

河田 純一 さん

河田 純一 さん (31歳)

CML発症後年数:約10年
大学2年生のとき、CMLと診断され、分子標的治療薬で治療を始めた。一時は大学を自主退学して治療に専念する時期もあったが、病気は快方に向かい、現在では患者会などで活躍するほか、大学院への進学を果たし、充実した日々を送っている。
(2015年5月取材)

河田さんが参加されている座談会のレポートはこちら

医師と患者さんで考える 新しい時代のCML治療(2023年11月29日開催)

取材者より

静かな語り口、柔らかな表情が印象的な河田さん。
CMLを発症した当初は、落ち込むことが多く消極的になりがちだったけれど、病気である自分と向き合えるようになってからは、「自分から動かないと」と積極的に周囲とのつながりを持つようになったそうです。患者会やNPOの活動、大学院で研究に打ち込む姿には、ご自身の世界を広げていこうとする強い意志が感じられました。

体調の異変が始まったのは2005年、大学2年生の秋頃です。何だか落ち着かない感じというのでしょうか、風邪の症状のような、何となく具合が悪い状態がずっと続いていました。そんな中、年末に実家へ帰省したとき、39度の高熱に襲われました。近所の内科で血液検査を受けたところ、「すぐ大きな病院に行きなさい」と言われ、地元の血液内科のある大きな病院へ。そこで、主治医から「慢性骨髄性白血病(CML)」の告知を受けました。
告知に立ち会った両親は、かなりショックを受けた様子でした。「差し当たり入院の必要はない、通院治療でいきましょう」と言う医師に、両親は「こんな寒い時期に家に帰すつもりか」と、言い方も少し感情的になっていました。突然の告知に混乱していたのだと思います。一方私はというと、移されたのが血液内科ということもあり、「ひょっとして白血病では」と予想はしていましたし、両親と主治医の間で感情的なやりとりもあったので、あまり口を出すこともできず(笑)、主治医から聞く話をそのまま受け入れていました。
結局、一度は帰宅しましたが、熱が引かなかったこともあり、病院のクリーンルームで入院することになりました。
病院ではまず、主治医の先生からCMLについて詳しい説明がありました。実際にフィラデルフィア染色体の画像を示しながら、病気について分かりやすく教えてくれました。このとき治療薬については、「こんな薬がある」といった程度の話だけだったので、病院から一時帰宅したとき、あらためて薬のことをインターネットで調べてみました。分子標的治療薬の情報はまだまだ少なかったですが、治療できる薬があることが分かっただけで、ずいぶん気が楽になったことを覚えています。
こうして分子標的治療薬による治療が始まりました。

主治医から「慢性骨髄性白血病(CML)」の告知を受けるイメージ

1ヵ月後、退院して実家に帰ったのですが、ずっと流動食の生活だったので、体重は激減。体力もすっかり落ちていました。当然、しばらくは寝ているだけの生活でしたね。
やがて少しずつ食欲も戻り、体も動くようになってきました。しかし、下痢や嘔吐などの副作用で、なかなか外出がままならず、とくに電車での移動は大変でした。全身の筋肉の痛みや痙攣もあり、寝ているときに突然の痛みとこむら返りに見舞われることが数年続きました。
こういった症状に対してはインターネットで対処法を検索して、「こうするといい」と書かれている方法を実践してみることもありました。
薬を飲むようになってから、みるみる肌が白くなり、日焼けで炎症が起きやすくなっていたのですが、日焼け止めクリームを塗って対処しました。こうした対処法もインターネットからの情報です。
こんなふうに、最初は何かとインターネットを頼りにすることが多かったですね。といっても正しい情報かどうか自分には判断できないので、そのうち患者会の発行する冊子や、がん専門病院の情報誌を参考にするようになりました。血液がんに関するフォーラムに自ら出向き、直接、専門家の話を聞いたりもしました。

インターネットで情報収集するイメージ

とはいえ、大学に通うのはやはり簡単ではありませんでした。発症の翌年春に休学し、その年の秋から復学したのですが、吐き気や下痢、体の痛みのため、通学がなかなか難しく、それでも2年間は在籍していたものの、2008年3月、とうとう自主退学することにしました。
あのときは悔しかったし、悲しかったですね。
社会学を専攻していたのですが、発症前は図書館の司書の資格取得に向けて勉強しており、実際に図書館でアルバイトもしていました。しかし、その夢はいったんあきらめざるをえませんでした。療養のため実家にいることが多かったので、東京の下宿先も、両親が家賃を払い続けてくれていたのですが、ほとんど使うことはありませんでした。
ただ、大学の先生が「来られるときだけゼミに出てくればいいから」と理解を示してくれたおかげで、大学との縁は切れずにいることができました。
一番うれしかったのは卒業パーティーのときですね。同期が卒業するタイミングで退学したのですが、みんなはそんな私を学科のパーティーに呼んでくれたのです。卒業はしていないけれど仲間と一緒にお祝いできたので、心残りなく大学を去ることができました。
また、パーティーのとき、普段はあまり接点のなかった先生がそばに来て声をかけてくれたことが、今も印象に残っています。「君もこれからいろいろ大変だろうけど、大学の外で学べることはいくらでもあるはずだよ」。この言葉にはとても勇気づけられました。
大学の友人たちとはもともと仲がよかったので、発症してからも交友が途絶えることはありませんでした。体調が回復してくると、よく連れ立って遊んだものです。一緒に温泉旅行などに行くこともありました。社会人になって環境が変わっても、みんなの私に対する姿勢はまったく変わりませんでしたね。
飲み会の場で、薬の副作用で指先がピクピク震え、箸やコップがうまく持てないといったこともありましたが、「指が痙攣してうまく持てないんだよね」と自ら話すと、そういうものかとすぐに納得し、自然に接してくれました。
発症当初は、CMLになったことをどう告げればいいか戸惑いもありましたが、すでにSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)などで病気のことを書いていたこともあり、さほど悩みませんでした。友人たちの受け止め方も深刻な感じではありませんでした。「治療薬はちゃんとあるから」と伝えていたためでしょう。
闘病中ずっと友人たちが支えてくれたおかげで、一人にならずにすみました。本当にありがたかったですね。

卒業パーティーのイメージ

大学に再入学したのは2012年のことです。実は2008年に退学した後、今度は母親が悪性リンパ腫を発症、入院してしまったのです。そのため数年間は自分の治療と並行し、看病や家事に明け暮れていました。アルバイトもしていたのですが、今後の人生を考え、どうしようか悩んだ結果、もう一度大学に戻ることにしました。
再入学したのは同じ大学の人間学部人間学科です。他の大学も考えましたが、直接大学に行って相談をしたところ、学科のほうから「単位を持ち越した形での再入学制度を利用しては」とアドバイスをしてくれました。ちょうど卒業パーティーで声をかけてくれた先生が学科長になられていたこともあり、理解が得られたのだと思います。
久しぶりに机に向かうのは思いのほか大変でした。基礎科目からやり直さないと授業についていけなかったので、当分は教科書にかじりついて勉強していました。
一方で、授業以外の活動もしていました。
大学が支援するNPO法人が、地域のコミュニティスペースを運営しており、そのスタッフとして働いていたのです。近隣の商店街の空きスペースを開放し、お年寄りや障がいを抱える人、養護学校の子どもたちなど、地域の人びとに活用してもらう取り組みでした。大学の宗教学の講義をここで行うこともあれば、生活保護を受給する人を招き、食事会やお茶会を開くこともありました。近所に仏像を彫るのが得意な方がいらしたので、その方に仏像彫刻の講習会を開いてもらったりもしました。
残念ながら、このスペースは2012年末に閉鎖されてしまったのですが、幅広い年齢層の方と出会えたことは、私の人生の大きな糧となりました。患者会の運営のお手伝いもしていますが、同じ意味でよい経験になっています。
このように、人と積極的にかかわる機会は、発症前に比べて格段に増えた気がします。
以前からSF小説の愛好家だったのですが、CMLになってからSF小説ファンの集まりに参加したり、そこで知り合った人たちと読書会を開いたりするなどの活動をするようになりました。
薬を飲みながらの生活をしていると、副作用などによって外出しづらいこともあって、人との接点は生まれにくくなります。しかし次第に、「受け身でいては何も変わらない、やはり自分から動かないとだめなんだ」という気持ちが生まれてきたのだと思います。
もちろん、発症当初は気持ちが落ち込み、消極的になりがちでした。しかし、10年近くCMLとつき合ううちに、「病気である自分」と冷静に向き合えるようになってきました。
他の人の話にしっかり耳を傾けたり、周囲のことを考えたりといった余裕も出てきました。病気との闘いが、自分を強くしてくれたのかもしれません。

地域のコミュニティスペースでスタッフとして働くイメージ

薬で知った――「科学技術は意外と身近なものだった」

大学に再入学した後、かつて目指していた司書の資格を取得。単位を持ち越していたこともあり、2014年9月に無事、卒業することができました。卒業後は働くか、大学院に進学するか、正直迷ったのですが、やりたい研究に専念する道を選び、2015年春大学院に進学しました。
今、取り組んでいる研究テーマは「科学技術と人びとの接点」についてです。
CMLになり、分子標的薬治療をするようになって感じたのは、科学技術は一般の人にとって意外と身近なものだということでした。それで、社会における科学技術の立ち位置について、あらためて考えるようになったのです。生命工学、生命倫理といった側面も鑑みて、研究を進めているところです。
研究成果を、がんを抱える人びとの支援に活かせたらいいな、と思っています。大学院への進学前、がん患者支援を行う会社でインターンシップをさせていただいたのですが、恩返しの意味でも、いつか大学院での取り組みを役立ててもらえたらうれしいですね。

河田さんが参加されている座談会のレポートはこちら

医師と患者さんで考える 新しい時代のCML治療(2023年11月29日開催)

比叡山の荒行、ともに乗り越えたパートナー

この靴は大学に再入学した次の年の夏、仏教学の研修で比叡山を走ったときに履いたものです。この研修に参加すると1単位もらえるというので、それなら、と安易な気持ちで申し込んだのが事の始まりでした。3泊4日の宿坊(僧侶や参拝者のための宿泊施設)体験の中に、「三塔巡拝」といって、比叡山の三塔(東塔、西塔、横川)を走って回る、という荒行が組まれていたのです。夜中に比叡山の宿坊を出発し、琵琶湖まで下りてまた宿坊に戻る、なんと全行程30キロのコース。申し込んだ後に知ったのですが、仏教の高僧の方が山ごもりをして修行するようなコースでした。本当に迂闊でしたね・・・。仏僧の方々がわらじで颯爽と走っていく後ろを、研修参加者30人くらいでぞろぞろと追いかけるのです。アップダウンの激しい過酷なコースのため、リタイアする参加者も現れました。とうとう私も山を走って登っている途中で、心臓がバクバクし始め、歩き出してしまったので、残念ながら最後の1~2キロを残して制限時間内にゴールすることはできませんでした。
明かりのない険しい山道を懐中電灯一つで走り回ったんですよね、この靴で・・・。ご覧のとおり、普通の革靴です(笑)。「履き慣れた靴がいい」と言われて持参したのですが、荒行ですっかり傷んでしまいました。厳しい修行を一緒に乗り越えてくれた、思い出深い靴です。

比叡山の荒行、ともに乗り越えたパートナー

CML発症後年数 10年〜

小林 淳子 さん

小林 淳子 さん
(CML発症後年数:10年)

すべては音楽を通じて―愛をもらったチャリティコンサート(2018年6月取材)

河田 純一 さん

河田 純一 さん②
(CML発症後年数:約13年)

病気をどうとらえるかは自分次第、そしてこの経験を誰かの役に立てたい(2018年6月取材)

白鳥 麗子 さん

白鳥 麗子 さん
(CML発症後年数:23年)

闘病を“きれいごと”にしないで(2014年7月取材)

篠原 摂子 さん

篠原 摂子 さん
(CML発症後年数:約11年)

長期にわたるCML治療では、主治医以外の先生の話を聞くことも有意義(2012年7月取材)

大森 由美子 さん

大森 由美子 さん
(CML発症後年数:13年)

待ちに待った分子標的治療薬を飲み始めた日から、心身ともにパーッと晴れた(2012年7月取材)

川野 曜子 さん

川野 曜子 さん
(CML発症後年数:16年)

(現在は治療なし)

もし「余命がない」と言われても、最後まで光を見つけられるような人間になりたい(2011年10月取材)

杉田 望 さん

杉田 望 さん
(CML発症後年数:19年)

たった一人のドナーさんに断られ、母と始めた骨髄バンク設立への活動、そして移植のために遠方へ(2011年10月取材)