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慢性骨髄性白血病(CML)の情報サイト

慢性骨髄性白血病(CML)発症後年数19年の杉田望さんの体験記。当時は分子標的治療薬が承認されておらず、造血幹細胞移植を受ける。現在は骨髄バンクのボランティアなどをしながら過ごしている。造血幹細胞移植ドナーを探すまでの道のりや、移植後どのように乗り越えて生活を送っているのか体験記を紹介したページです。

杉田 望 さん

杉田 望 さん (40歳代)

CML発症後年数:19年
18年前に造血幹細胞移植を受け、現在はCMLの治療を終え、 骨髄バンクのボランティアなどをしながら過ごされている。
(2011年10月取材)

取材者より

CMLと診断され移植を受けられてから19年。
本音を話せたらいい、と15年ぶりにインタビューを受けてくださいました。
移植をして助かったからこその苦しみや不安、一緒に移植をしたにもかかわらず、生きようという思いがかなわなかったご友人のこと、今現在CMLと向き合っておられる患者さんと接して感じることなどたくさんのことを語っていただきました。
自分は優等生的な答えはしたくない、立派なことは言えないと何度も仰いましたが、お話の中から杉田さんの繊細な人柄 が垣間見えた気がしました。
本が好きということで、いつかご自身でその思いを綴っていただけたらな、と思いました。

「病名はわかりません」、そんなはずはない、と思いながら悶々(もんもん)と過ごした3カ月

大学4年生になる直前の春休みの帰省中、就職活動をする前に健康診断をしておこうと、軽い気持ちで母が事務で働いている病院で検査したところ、異常がみつかりそのまま即入院となりました。入院時、母は病名を知らされていましたが、僕は病名を言われないままの入院となりました。
入院した次の日に大学病院で精密検査をした時も、「病名はわかりません」と言われ、そんなはずはないと思いながらも、それまで全く普通の生活をしてきたので、まさか自分が白血病みたいな死に至るような病気だとは思っていませんでした。それに、「俺の病気はひどいんやないの?」と聞いて、「何を深刻になってんの」とか「あんた、考えすぎ」と言われるのが恥ずかしい、みたいな気持もありました。
ただ、自分が病気をして意外だったのは、当時はまだ医療者側も白血病患者の扱いに慣れていないというか、告知するかしないかということも、ものすごく中途半端でした。嘘のノウハウがないんです。「病名はわからない」と言われる一方で、病名がわからないのに入院して治療までするなんておかしいですよね。おかしい、おかしいで、ずっと過ごしていました。
CMLと知ったのは、入院して3カ月ぐらい経ったころ、大学を休学するという話が出たのがきっかけでした。最初は病名がわからないけれども、とりあえず1カ月ぐらい治療するという話だったので、僕はそのまま大学に戻るつもりでいたんです。それが1カ月経っても、「いや治療は終わったけれども、まだちょっと入院しといて」という感じで2カ月になり、3カ月経って、いつになったら退院できるのかという話も一切ないうちに、大学を休学するという話が出たんです。そのとき初めて、おふくろを真剣に問い詰めたら、実は白血病だと言われました。

たった一人のドナーさんに断られ、母と始めた骨髄バンク設立への活動、そして移植のために遠方へ

自分がCMLだと知ったころ、まだ公的な骨髄バンクはなく、民間の骨髄バンクが九州と東海にあるのみで、そこに一人だけドナーが見つかっていました。秋ぐらいには移植の話になるかなという感じだったのですが、ドナーから連絡がなくなって、その移植はだめになってしまいました。そのたった一人に断られたときは本当に焦りました。もうだめかもしれないと思いながらも、母と共に骨髄バンクの設立のため、啓発運動や患者会の活動を始めるようになりました。そのあと公的な骨髄バンクができて、ドナーが見つかり、発病から1年10カ月で移植となりました。
当時、私の住んでいた地域では骨髄バンクを通した移植が1例もなかったので、いろいろ考えて、移植の数が多く、バンクを通した移植も行っていた病院で造血幹細胞移植を受けました。大きな病院だったので、自分と同じような病気の子、同じような年代の子が10人ぐらいいました。僕ぐらいの年齢で移植した子も5~6人いましたが、移植した子はみんな亡くなってしまいました。僕だけ生き残ったような感じで、正直移植はしないほうがいいなと思ったこともありました。
移植後は免疫抑制剤を飲んでいる間、血糖値が上がり、インスリンを1年ぐらい自己注射していましたが、免疫抑制剤がなくなったと同時にインスリンも打つ必要がなくなり、その時点でCML治療に関する薬の服用は全部なくなりました。

再発が怖くて、気を使うようになった健康と食事

移植後は抵抗力が弱くなるので、1年間は生野菜、刺身などの生ものは食べないように言われていました。移植したあと何が怖いかというと、再発が怖いんです。あんなに苦しい思いをしたことが無駄になってしまうと考えると、本当に怖かったです。たとえば風邪をひいたり、お腹をこわして下痢をしたときは、CMLとは直接関係ないのですが、病気をしたら抵抗力がなくなってがん細胞が増えるのではないか、再発する危険性が増すのではないかという気持ちになりました。また細菌恐怖症みたいな感じにもなって、新鮮で清潔なものしか口にできなくなったり、手を1日に何十回も洗ったりするようになってしまいました。すぐには生活を切り替えられず、生ものを食べ始めたのは2年ぐらいしてからだと思います。
CMLになるまでは食事に全然気を使ってなかったのですが、その反動からか、今はとにかく野菜は毎日しっかりと食べるように心がけています。

世間一般にもっと骨髄移植の大変さを分かってほしい

社会的な認知では、移植をしたらもう治ったことになっていて、移植した患者さんに対しても「もう治ったんだろう」と病気になる前と同じように接する方も多いです。移植患者さん自身、移植の一番つらい時期を乗り越えたので、「僕は治りました。こんなに元気になりました」と言いたくなります。しかし、移植してからも大変だということを、もうちょっと一般の人にわかってもらいたいなと思います。
特に社会に出て仕事を始めると、移植前と見た目は変わらず普通ですから、自然と健常者と同じレベルのことを求められます。患者自身も移植直後は頑張ってしまいます。僕もそうでした。移植をして治ってすぐというのは、むしろテンションが上がります。病気をした、移植をした、人から助けてもらった。なんて人生はすばらしいんだ、ここから俺は頑張るぞとなります。でもなかなかそれがうまくいかない。自分の中で、病気をしてハンディを負った部分が、時間が経つごとに積み重なってきます。移植した後、しばらくは頑張れると思うのですが、何年か経って壁に当たっている方も多いのではないかと思うんです。
たとえば僕は髪の毛が薄いので、伸ばすといかにも病的になります。そうすると弱々しい感じがするのか、仕事をしていても、言葉は悪いですが、なめられるようなことがあります。病人だと思われると、世の中10人に1人ぐらいは偉そうに言ってきたり、ばかにしたような態度を取る人がいます。そういう人間に出会うのが嫌になって、それがだんだんたまってきて、5~6年経ったころにやけくそになって全部丸刈りにしました。そうやってちょっとこわもてな感じになったら、真っ先にそういう嫌な人間が寄ってこなくなったんです。それはそれでよかったのですが、人間の汚い部分を見るような気がして、だんだんと世の中が嫌になるような気分になっていました。
僕としては、患者さんはそんなにがんばらなくてもいいのではないかと思っています。病気をして食っちゃ寝するような生活も、それならそれでしょうがない、これが運命だと思って、受け入れるという感じもありではないかと思います。「こんなにがんばりました」と言いたい患者さんも多いし、そういう方がこういう取材を受けられることも多いと思います。でも、その中で、少数でいいですから、「頑張らなくていいよ、のんびりいきましょうよ」という意見があってもいいと思うんです

内服薬が発売されてやっと開放された再発からの恐怖

CMLのための内服薬が開発されたと聞いたときに、これで再発しても移植しないですむと思って、だいぶ楽になりました。再発する夢も見ることはなくなりました。移植をして15年くらいたったころだったでしょうか。
それまでは、月に1回ぐらいは再発した夢を見て、うなされては目を覚ましていました。再発して亡くなった知り合いを何人も見てきたからです。僕とほとんど同じ時期に移植した仲のよかった子が、2年ぐらい経って再発して亡くなったんです。見つかったときは手遅れで、それがトラウマになってしまったんです。移植から時間が経って、治ったらこれからどうしようか、という話しかしていなかったのに、ある日突然電話で「今日病院に行ったら再発したと言われた」と、彼自身びっくりした様子で言いました。いきなり手遅れの状態でわかるというのは割と特殊な例だったらしいのですが、それを聞いて、これはいつ再発するかわからない、しかも突然来るんだなという怖さを感じました。
僕は治ったという意識は遅かったと思います。40歳を越えてようやく、40まで生きられただけでいいやという感じになりました。40歳になれるとは思っていなかったので、ようやくぼちぼち開き直れた気がします。最近は再発する夢も見なくなりました。

ボランティアを通して感じる病気と向き合うことの難しさ

ボランティアでは市役所や各地のイベントで骨髄バンクの登録会の手伝いとして広報活動をしています。
母は患者会を通じて、いろいろなネットワークを持ちながら患者さんの悩みを聞いたり、相談にのったりしていますが、僕にはそこまではできません。自分の悩みも解決できないのに、患者さんの悩みは解決できないよと思います。それは、命のかかった相談です。もしかしたら、僕の何気ない一言が患者さんの命を左右するかもしれません。それを今の僕は受けとめられないんです。
でも、常に恩返しをしたいなとは思っています。バンクのことも、ボランティアというより、社会への恩返しという気持ちでやっています。ボランティアをやっていると、ドナーになった人と患者でボランティアをしている人ではちょっと違う気がします。ドナーになった方は仕事もしっかりしているし、本当に幸せな家庭を築いていて、人間的にもすばらしいんです。ドナーになる前からすばらしくて、ドナーになったあともすばらしい人ばかりです。
でも患者というのは性格とかそれまでの人生に関係なく患者になるわけで、さまざまな人がいます。病気についての知識が全くないまま治療を受けていることもありますし、薬を飲まず、そのまま再発して亡くなってしまう人もいます。特に若い子の中には、自分が病気をしたということを認めたくないのか、移植したとなったらすぐに以前と同じような生活をしようと無茶をして、それで亡くなった子もいっぱい見ています。
10人の患者がいたら10人全員を救えるとは限りません。医師はこういう問題をどう解決しているんだろう?、インフォームドコンセントはどうやっているのだろう?と思うことがあります。医師はデータで話をしますが、患者さんにとっては自分がうまくいくかどうかが問題であって、そうなると誰にもわからないことになります。結局最終的には自分で決めないといけないということになります。自分が生きるか死ぬかも、全部自分の意思で受け止めるしかないと思うんです。
たぶん大多数の医師は割り切って、仕事としてやっているのかもしれない、とも思います。僕もボランティアのときはそんな感じかもしれません。割り切らないことにはやっていけません。ですから僕はあまり深く考えないようにしています。だから掘り下げたことを訊かれても困るんです。母のようには患者さんの相談にのれないと思ってしまうのです。

本を読むのは中学生ぐらいからずっと好きで、活字中毒みたいな感じでした。そのころはマンガとかSFとかが中心でした。人に自慢できるようなものではなく、自分がおもしろいと思ったものをただ読んでいます。つい本屋に行っては買ってしまい、いまも読みかけで置いている本が何十冊もあります。その中から人前に出しても一番大丈夫そうなのを持ってきたら、アリストテレスとデカルトの本になりました(笑)。若いころは1日1冊読んでいた時期もありましたが、いまはさすがに年をとってきて、首とかが疲れるので、本を読むのはたぶん1年に20、30冊ぐらいじゃないでしょうか。
僕は読書をしていることを人に言うのが恥ずかしいんです。「趣味は何?」「読書」とは答えるのですが、「どんな本を読みよると?」と聞かれると、子どものころから恥ずかしくて言えない。本棚も人に見せられない。自分の頭の中を覗かれるみたいに感じてしまうのです。この気持ちはわかってもらえないなと思っていたら、作家の浅田次郎さんがテレビで、「僕はめちゃくちゃに本を読む。だからテレビの取材でも本棚は絶対に映さないでくれ」とおっしゃっていて、ものすごく共感しました。
実はたまに小説とかを書いて投稿しています。いつか本を書いてみたいなと思っています。たぶんまだ僕にそんな実力がないので、アリストテレスとかを読んでいまから勉強しようかと思っています(笑)。

本棚の中の貴重な2冊

人には見られたくない本棚の中の貴重な2冊

甥の成長と病気からの年月をあらわす靴

僕が移植のために入院していた頃、姉が妊娠していました。
見舞いに来るたびに大きくなっていくお腹を見ながら「ああ、自分が死ねばこの子は僕の生まれ変わりと呼ばれるかもな」などと想像しては、慌ててその考えを振り払い「縁起でもない。俺は生き残る。この子も誰かの代わりなんて呼ばせない」と内心で固く誓っていました。
それから十余年、幸いにも僕はそれだけ歳をとり、甥は僕の生まれ変わりと呼ばれることもありませんでした。甥とはよく二人で遊びに出かける仲になり、姉は「変な叔父と甥」と揶揄しています。
ある日のことです。甥が「ボーリングをしたい」というので二人で出かけました。どうやらクラスメイトとやって興味を持ったようです。甥は小学六年生でそんな遊びをするようになっていました。
ボーリング場の受付で店員がシューズの貸し出しのために「靴のサイズは」と聞いてきます。僕は「26」と答えました。横にいた甥は「28」と口にします。

「にじゅうはち!?」

初めは冗談かと思いました。しかし、ほんの数年前まで背伸びをするように僕と手をつないでいた甥は、いつの間にか縦も横も僕と変わらないまでに成長しています。とはいえ、まだ小学生です。いくらなんでも28はないだろう。

「だって本当やもん」

まだまだ幼い顔でそう言います。僕は甥の足に目を落としました。そして僕の足と比べました。すると、明らかに僕より大きい。というか今まで見たことがないほどでかい。まるで野良猫でも隠れていそうです。

「お前は本当に俺の甥か?」

「しょうがないやん、大きくなるっちゃもん」

そう。大きくなりました。甥は甥。僕は僕。あの日の誓いを懐かしく思い出せる日が来たことに感謝する毎日です。

甥の成長と病気からの年月をあらわす靴

甥の靴は28cm!(下)

CML発症後年数 10年〜

小林 淳子 さん

小林 淳子 さん
(CML発症後年数:10年)

すべては音楽を通じて―愛をもらったチャリティコンサート(2018年6月取材)

河田 純一 さん

河田 純一 さん②
(CML発症後年数:約13年)

病気をどうとらえるかは自分次第、そしてこの経験を誰かの役に立てたい(2018年6月取材)

河田 純一 さん

河田 純一 さん①
(CML発症後年数:約10年)

一人にならずにすんだ―― 大学を辞めても支えてくれた仲間たち(2015年5月取材)

白鳥 麗子 さん

白鳥 麗子 さん
(CML発症後年数:23年)

闘病を“きれいごと”にしないで(2014年7月取材)

 

篠原 摂子 さん

篠原 摂子 さん
(CML発症後年数:約11年)

長期にわたるCML治療では、主治医以外の先生の話を聞くことも有意義(2012年7月取材)

大森 由美子 さん

大森 由美子 さん
(CML発症後年数:13年)

待ちに待った分子標的治療薬を飲み始めた日から、心身ともにパーッと晴れた(2012年7月取材)

川野 曜子 さん

川野 曜子 さん
(CML発症後年数:16年)

(現在は治療なし)

もし「余命がない」と言われても、最後まで光を見つけられるような人間になりたい(2011年10月取材)