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慢性骨髄性白血病(CML)の情報サイト

慢性骨髄性白血病(CML)発症後年数約11年の篠原摂子さんの体験記。当時はまだ日本で承認されていなかった分子標的治療薬を医師の管理下で個人輸入して治療を開始。現在は分子遺伝学的奏効を達成。分子標的治療薬との出会いによってCML治療とどう向き合い、生活や仕事の不安をどのように乗り越えて生活を送っているのか体験記を紹介したページです。

篠原 摂子 さん

篠原 摂子 さん (59歳)

CML発症後年数:約11年
診断後、免疫を高める薬で治療を始めたものの効果がなく、分子標的治療薬を医師の管理下で個人輸入し、治療された。現在は分子遺伝学的寛解を達成。
(2012年7月取材)

取材者より

篠原さんは、小柄で穏やかな印象の方でした。CMLと診断されてから、最初は治療がうまくいかず辛い思いをされたそうですが、日本より先に海外で承認された分子標的治療薬の存在を知ってからは、なんとかその治療を受けたいと、広い交友関係を活かして海外で治療を受ける段取りまで付けられました。そのバイタリティに驚かされるとともに、きっと周りの人に「力になってあげたい」と思わせるであろう、篠原さんのチャーミングなお人柄を、インタビューを通じてとても感じました。
「わたしの一足」で紹介させていただいた、クラシックバレエのレッスンで足のむくみが楽になるというエピソードは、興味深いものでした。

がんだと聞いて気が動転、「気をつけて家へ帰ろう」と思った

私がCMLと診断されたのは2001年3月、48歳のときでした。それまでの私は病気らしい病気をしたことがなく、テニスとスキューバダイビングが好きで健康そのもの。人間ドックで血液検査を3回も受けた結果、「血小板が多いので、専門の病院で再検査をしてください」と言われた時も、身体の変化に心あたりがなくぽかんとしていました。
紹介されて行った病院では、血液検査のほかにマルク(骨髄穿刺)も受けました。「骨髄の検査をするなんて、何の病気だろう」と思って家へ帰ってから調べたのですが、骨髄の病気はたくさんあります。頭の中に「?」がいっぱいの状態で、数日後、検査結果を伺いに病院へ行きました。
その時、先生から初めて「あまり良くない状態です」というお話がありました。「次回、ご主人と一緒に来て下さい」と言うだけで病名をおっしゃらなかったので、「もしかしたら、骨髄のがんですか?」と聞いてみたところ、紙に「慢性骨髄性白血病」と書き、血液のがんだと説明されたのです。
病名を知った時は、「私、死ぬのかしら?」と、ショックで頭の中がグルグル回りました。それなのに、ちゃんと「気をつけて家に帰ろう」とも思ったのを覚えています。気が動転していたはずなのに、「もし事故にあったら、ショックで線路に飛び込んだのか? と思われるかもしれない。それは私の本意ではない」なんていうことを冷静に考えていました。
後日、改めて夫と一緒に1時間以上かけて詳しい説明を受けました。夫はとてもショックを受けた様子で、「先生にお任せします」と言いました。その後すぐに、当時主流だった免疫を高める薬を毎日自己注射する治療が始まりました。

治療を始めたものの、白血球数はなかなか下がらず、そればかりか副作用の高熱、身体の痒みに苦しみました。暑いので室温をいつも20℃に設定していましたし、夜は痒みで眠れないくらいでした。イライラを夫や大学生だった娘にぶつけることもしばしばで、不安で気持ちに余裕がなく、「もう死ぬかもしれない」とよく言っていました。夫は「思い残すことのないようにしたい」と言って、無理して旅行へ連れて行ってくれたり、サッカーのワールドカップのチケットを、大変な思いをして入手してくれたりもしました。今になって「だまされた」と言っています(笑)。今思い返すと、この頃は身体的、精神的に一番辛く、家族にも迷惑をかけた時期でした。
当時、それ以外の治療選択肢として効果が期待できるものは、造血幹細胞移植のみでした。ただ、私の場合は年齢が移植の適応上限に近く、またHLA型の合う兄弟もいなかったことから、移植をしてもあまり良い結果は望めないとのことでした。でも、きっと他に治療法があるに違いないと、診断後すぐに移植や免疫を高める治療以外の治療法を必死で探し始めるようになりました。すると不思議なことに、それまで得意ではなかったインターネットが急にできるようになって(笑)、毎日、国内外問わず病気の情報を集めたり、他のCML患者さんとメールで情報をやりとりしたりしていました。

インターネットを使用しているイメージ

新薬との出会い。めぐり合わせに感謝した

そんな中、5月に米国で新薬(分子標的治療薬)が承認されたことを知りました。向こうでは、そのカプセルの形にちなんで「magic bullet(奇跡の弾丸・奇跡の薬)」と評されている画期的な新薬だと聞き、「私がCMLという珍しい病気になって、新しい治療法を探し始めたタイミングでこんなに素晴らしい新薬が出るなんて。きっとめぐり合わせに違いない」と思い、それ以来その薬のことで頭の中がいっぱいになりました。
「どうにかその薬を手に入れて、治療を受けたい」。日本ではまだ承認されていない薬です。治療を受けるにはどういう方法があるのか、情報をかき集めました。夫も米国の友人達を通じて、向こうで治療を受けたらどのくらい費用がかかるかなど調べてくれました。当時の私は「この薬で治るんだ」という思いで突進していました。ロサンゼルスやニューヨークにいる友人達が協力的だったことも、「これは何だかついているな」と感じて元気の素になっていました。
最終的に、ニューヨークに住んでいる知り合いを頼って、向こうで治療を受けようと決めました。先生も「じゃあ、行きますか」と協力的でした。ところが、渡米直前に9.11同時多発テロが発生、そのプランを中止せざるを得なくなったのです。本当に目の前が真っ暗になりました。どうにかして治療を受けられないかと、先生に「日本で治験に参加できませんか?」と相談したところ、治験には参加できなかったのですが、その薬の治療が受けられる病院を探してくださり、そちらで治療を受けることになりました。
紆余曲折を経て、やっと念願の治療を始めた結果、すぐに白血球数が減って効果が現れました。ただ、大変だったのは薬を個人輸入しなければならなかったことです。その「magic bullet」は、当時1ヵ月分が約30万円! ドル建て決済だったのでレートを見ながら発注して、その後は「無事に届くかしら?」と毎日配達状況の追跡情報をインターネットでチェックして…。ですから、その年の12月に日本でこの薬が承認されて保険が適用された時は、「個人輸入の手間と薬代の不安からやっと解放される。よかった!」と心から思いました。個人輸入をしていた時は、「1つも落とさないようにしよう、この高いお薬を…」という感じで毎回緊張して飲んでいましたから(笑)。服用を始めた当初は特に、飲んだ時にムカムカと吐き気がして、薬をもどしそうになるところを、もったいないからと一生懸命飲み込んでいたんですよ。

※この記事は、2012年7月当時の取材に基づいています。

病気に遠慮せず接してくれた友人達がありがたかった

CMLと診断されてから、友人達の存在は大きな救いだったなと思います。
当初、「もう死ぬかもしれない」と思っていたので、隠しておけなくて、テニスの仲間など親しくしていた友人達に病気のことを話したのですが、友人達は、「誰だって、これからどんな病気になるか分からないでしょう、みんなもういい年なんだから」と言って、病気に遠慮することなく普通に食事に誘ったり、接したりしてくれました。それまでと同じようにしてくれたのが嬉しかったですし、私の一方的な話を聞いてくれたのは大きな支えでした。
また、当時は外国人の方に日本語を教えていたのですが、生徒には「私は白血病で、この仕事を辞めなければいけなくなるかもしれない」と話しました。そうしたら、みなさんが励ましてくださり、ある方は「休んでもいいです。復帰するまで待っています」と言ってくれました。その言葉は嬉しかったです。派遣元の日本の会社に病気の話をした時は、「それじゃあ、仕事は辞めるんですね?」という反応だったのに対して、海外の方は「がんになってもまた復帰できる」という態度で接してくださったので、全然違うなあ、と感じたものでした。患者会でみなさんのお話を伺っていると、たとえ服薬治療が可能で生存率の高いCMLでも、社会的な事情により、会社で仕事を続けるのは難しいという状況があるようですね。
私も結局、日本語教師の仕事は、休む時に代理の講師を依頼しないとならないし、生徒にも迷惑をかけるので辞めました。現在は友人の紹介で、自宅でできる仕事をしています。

分子標的治療薬を服用し始めた当初、副作用かなと思う症状が出た時に先生に相談しても、承認前ということもあり、薬に関する情報がまだ少なかったためか、自分が求めるような明確な答えが得られる状況ではありませんでした。だから、海外の添付文書を持っていって「ここにこう書いてありますけれど」とお見せしたことが何度かありました。ちょっと生意気な患者だったかもしれませんね(笑)。
CMLを発症してから約11年、治療効果が出なかったり、薬の個人輸入をしたり、そのため同時に2つの血液内科にかかったりと、様々な出来事がありました。そのたびに不安になったり選択に迷ったりしてきましたが、私の場合は、先生が時間に余裕のありそうな時を見計らって、よく相談してきました。それで安心できたことは多かったです。
CMLの治療は長期にわたるので、治療を受ける中で生じた疑問や気になることは、できるだけ主治医とお話しして解決したほうがいいのではないか、というのが私の考えです。主治医に伺うのが難しい場合は、セカンドオピニオンを取ったり、患者会が主催するフォーラムなどにいらしている先生に質問するのも方法だと思います。私はCML患者会にスタッフとして参画していますが、よくみなさんに「フォーラムにご自身の通っている病院以外の先生が参加されるなら、是非お話を聞いてください」とお伝えしています。主治医以外の先生のお話を聞くことも、セカンドオピニオンになるのではないでしょうか。

先生に相談するイメージ

夫の病気で患者の家族の立場も経験、自分がどれだけ心配をかけていたのかが分かった

CMLになった当初、家族にとても心配をかけた私でしたが、その5~6年後、今度は夫が開頭手術の必要な大きな病気にかかり、私が心配する立場になりました。「夫が死んでしまったらどうしよう」と思うと不安で、自分の病気のことはすっかり忘れてしまい、できる限りのことはしようと名医と呼ばれる先生を調べたり、手術後は毎日病院に通って様子をみたりしました。このような患者の家族の立場も経験したことで、自分がどれだけ家族に心配をかけてきたのかがよく分かりました。それに、夫とは学生の時からずっと一緒なのですが、病気をしたことで存在のありがたみもすごく分かりました。
幸い、お互いに元気になったので、海外出張にも自転車を持っていく夫の趣味につきあって、近々イタリアを旅行したいと思っています。イタリアは「ジロ・デ・イタリア」という自転車ロードレースが有名で、夫は自転車を楽しめるし、食事も日本人に合いますしね。車が少なくて、歴史散策も楽しめるシエナ、トスカーナ地方が良さそうかな、と計画しています。
これからの目標は、ずっと元気で過ごすことでしょうか。3年前に孫が生まれたのですが、その時、娘が切迫流産になり、本当に心配で、心配で大変でした。私の主治医には「孫が生まれるので、しばらく自分のことは考えられない」とお話しし、自分のことは忘れて毎日娘のもとへ通ったんです。無事に孫が生まれ、落ち着いてきた頃の通院日に、カルテに「孫、誕生」と書いてくださっているのを発見し、「ああ、いい先生だな」と思いました。
そんなふうに生まれてきた孫なので、可愛くてしかたがありません。今は石川県に住んでいますが、15年後、大学に進学する時には多分東京に来るんだろうね、と夫と楽しみにしています。先は長いですが、その時に元気に孫を迎えられるようにしたいですね。

CMLになってから始めたバレエのシューズ

分子標的治療薬で治療を始めてからは、手足がつりやすくなったので、それまで大好きだったテニスやスキューバダイビングができなくなりました。「でも、何か身体を動かさないと」と思ってジムに入会し、クラシックバレエに出会いました。
もともとバレエを見るのが好きで、音楽も好きだったので、軽い気持ちで始めたのですが、見事にはまりました。音楽に合わせて自分なりに表現する魅力にとりつかれて、1コマ60~90分を週2~3回、ジムをはしごして楽しんでいます。やはり足が時々つりますが、クラスの方は同年代の方が多く、みなさんも同じように「つった、つった」とよく言っています(笑)。良い友人がたくさんできました。週末のクラスには男性も何名かいらっしゃるんですよ。
始めてから気付いたのですが、バレエは筋肉をストレッチするので、治療でむくみやすくなっている私にはすごく合っていました。むくみが取れて、特に足がすっきりするので、レッスン後は靴に足がすっと入るのです。姿勢が良くなったせいか、身長も1cmくらい伸びました。「これはいいものを見つけた!」という感じです。筋肉を使った証拠が検査値にしっかりと出るらしく、バレエの翌日に病院へ行くと、血液検査でCPK値が高いので、先生に「昨日、何かしましたか?」と聞かれます(笑)。でも、1~2日おきくらいのペースでレッスンするのが、私には合っているようです。

*CPK値:筋肉の中にある酵素の値。強い運動後や心筋梗塞を起こした時などに値が上がる。

CMLになってから始めたバレエのシューズ

トゥシューズは足がつるのであまり出番がありませんが、お守りです。

CML発症後年数 10年〜

小林 淳子 さん

小林 淳子 さん
(CML発症後年数:10年)

すべては音楽を通じて―愛をもらったチャリティコンサート(2018年6月取材)

河田 純一 さん

河田 純一 さん②
(CML発症後年数:約13年)

病気をどうとらえるかは自分次第、そしてこの経験を誰かの役に立てたい(2018年6月取材)

河田 純一 さん

河田 純一 さん①
(CML発症後年数:約10年)

一人にならずにすんだ―― 大学を辞めても支えてくれた仲間たち(2015年5月取材)

白鳥 麗子 さん

白鳥 麗子 さん
(CML発症後年数:23年)

闘病を“きれいごと”にしないで(2014年7月取材)

大森 由美子 さん

大森 由美子 さん
(CML発症後年数:13年)

待ちに待った分子標的治療薬を飲み始めた日から、心身ともにパーッと晴れた(2012年7月取材)

川野 曜子 さん

川野 曜子 さん
(CML発症後年数:16年)

(現在は治療なし)

もし「余命がない」と言われても、最後まで光を見つけられるような人間になりたい(2011年10月取材)

杉田 望 さん

杉田 望 さん
(CML発症後年数:19年)

たった一人のドナーさんに断られ、母と始めた骨髄バンク設立への活動、そして移植のために遠方へ(2011年10月取材)