慢性骨髄性白血病(CML)発症後年数16年の川野曜子さんの体験記。当時は分子標的治療薬が承認されておらず、抗がん剤治療の後、造血幹細胞移植を受ける。後遺症や不妊に悩み苦しむもこれを乗り越え、現在は健康に過ごしている。造血幹細胞移植の後遺症にどう向き合い、どのように乗り越えて生活を送っているのか体験記を紹介したページです。
川野 曜子 さん (33歳)
CML発症後年数:16年(現在は治療なし)
13年前に造血幹細胞移植を受け、現在はCMLの治療を終えて健康に過ごされている。
(2011年10月取材)
取材者より
明るい笑顔と、はきはきと話される姿が印象的な川野さん。
16年前にCMLと診断された当時は、まだ分子標的治療薬が承認されておらず、治療は造血幹細胞移植に頼らざるを得ない時代でした。辛く、人によっては致死的な後遺症が現れることもある造血幹細胞移植ですが、川野さんは成功しました。
しかし、元気を取り戻すまでは平坦な道のりではなく、後遺症、特に不妊になることについては悩み、苦しまれたそうです。「今病気で苦しまれている方の気持ちになれるかと言ったら、そうではないかもしれないけれど、私も悩んだ時があって、きつい、辛い気持は少しは分かる。もし役に立てるのならば」と、ご自身の体験をお話しくださいました。
CMLが発覚したのは、打ち身がきっかけだった
1997年6月、18歳で慢性骨髄性白血病(CML)と診断されてから約16年経ちました。
20歳で造血幹細胞移植を受けた後、しばらくは後遺症に苦しみましたが、再発することなく元気に過ごしています。今は薬も飲んでいません。飲食店で働き、男性スタッフと一緒に力仕事をこなしています。困っていることと言えば、こむら返りがひどいくらいで、ちょっとへんな姿勢をすると「アイタタタッ」と。
CMLが発覚したのは、皮膚の紫斑がきっかけでした。仕事上、打ち身になることが多かったのですが、私の場合、同期の人たちと比べて症状がひどく、足が痛くて歩けないくらいになったので「おかしいな」と思い、大学病院の皮膚科へ行き、血液検査と診察を受けました。
当日、病院から「血液検査で異常があったので、明日来て下さい」と電話がありました。そのときは「絶対に、誰かと間違えている」と思いました。病院へ行くと紫斑になっている皮膚を生検用に切り取られ、十何針縫いました。そしてその日のうちに血液内科に紹介されて、すぐに入院することになりました。私は何が起きているのかわからず、不安と痛みで大泣きしました。入院時の白血球数は30万/μL以上になっていたので、既にかなりCMLが進んでいる状態だったと思います。
思い返せば高校生の頃から疲れやすかったです。いつも微熱があり、自転車で登下校するのさえきつくて…。一度、自転車で軽く転んだら、ひざから太ももまで真っ黒に内出血したことがあります。びっくりして病院へ行きましたが、小さな病院で、血液検査をせずにただの打ち身として帰されました。私も「そんなものかな」と思って、そのままにしていました。でも、その頃には既にCMLを発症していたのでしょう。
抗がん剤だと知らなかったから、数日分の薬をまとめて飲むこともあった
入院するにあたって、両親には私がCMLであることが伝えられていたようですが、私には「ナントカ症候群」と言われていたように記憶しています。「いずれ造血幹細胞移植をしないといけない」と言われていましたが、造血幹細胞移植が何かも分からず、先生から「血液を入れ替えるだけだから簡単だよ」と言われるのをそのまま信じていました。ただ、周囲の様子がちょっと変だな、という気はしていました。すごく心配されているような…。
入院後は、白血球数を減らす抗がん剤での治療が始まりました。白血球数の変化を見ながら、飲む薬の量を調節するのですが、抗がん剤だと知らなかったので、飲み忘れてしまうことがよくありました。「白血球数が上がったら飲んでいないことがバレる」と思って(笑)、気が付いた時に何日分かの薬をまとめて飲むこともありました。もし抗がん剤だと分かっていたら、もっと真面目に飲んでいたかもしれません。
私がCMLであることを知ったのは、入院後2ヵ月くらい経ってからです。でも、今のようにインターネットが身近にある時代ではなかったので、自分で病気のことを調べてみよう、という気にはなりませんでした。少し経ってから『家庭の医学』を読んで、「大変な病気じゃない!」と、事の重大さを知ったのです。
抗がん剤の飲み薬のほか、自己注射の薬も試しましたが、自分で注射を打つ時、「もし地震が起きたらどうしよう」「人がぶつかったらどうしよう」と思うと怖かったです。
ちょうどその頃、おじの知り合いである製薬会社の方の紹介で転院したのですが、その転院先の医師の判断で自己注射の薬は中止することになりました。当時は分子標的治療薬がなかったので、残された治療は造血幹細胞移植しかありませんでした。最初の入院先の先生には「そんなに急いで移植しなくてもいい」と言われていましたが、転院先では移植に向けた準備を始めるという結論に至りました。しかし、その病院には移植の設備がなかったため、担当医の大先輩という医師を紹介していただき、2度目の転院をすることに。幸いすぐにドナーが見つかり、その数ヵ月後に移植をすることが決まりました。
移植を受けるまでの期間に、職場へ復帰してみましたが、結局、体力がついていけなくて辞めました。仕事帰りは疲れ果てて車も運転できない状態で、「こんなにしんどいのに、ましてや死ぬかもしれないのに、無理して働かなくてもいいか」と思い、辞めました。
移植の副作用が辛くて「気を失いたい」と思った
CMLと診断されてすぐの最初の入院は、友達がたくさんお見舞いに来てくれたり、看護師さんと話したり、隣のベッドのおばさんのパシリに使われたり(笑)、「私、初めて入院した」みたいな感じでそれなりに楽しく過ごしていたけれど、移植のための2度目の入院は大変でした。
まず、入院早々に水ぼうそうにかかりました。関節がものすごく痛くて、トイレに行くのも泣きながらでした。先生は、移植日が決まっていたから治療に苦労されたようです。「あの時は本当にギリギリだった」と言っていました。
そして、無菌室の中が本当にきつかったです。私の場合は移植の副作用がとても辛くて、本当に「生き地獄」と思ったくらいです。常に吐き気が止まらず胃液を吐いて、激痛レベルの腹痛が1日中続いて下痢ばかり、だるさから解放されることがなくて、副作用が続いている間は、いつも気を失いたいと思っていました。麻酔をかけてもらって、症状が落ち着いたころに目覚めさせてもらえたらどんなにいいか、と。この状態からいつ解放されるか分からなかったから、1分でもいいから解放されたいと思っていました。そんな状態が3~4週間続きました。
移植の副作用は個人差があるようで、私より1週間くらい後に入ってきた方は、元気でいつも笑っていました。兄弟間の移植だったからかGVHD*が軽くて、「先生!」っていつも大きな声で話しているんです。でも、その方は一般病棟に移ってから亡くなりました。
*GVHD(Graft Versus Host Disease: 移植片対宿主病)
造血幹細胞移植をした後に、ドナーのリンパ球が患者の内臓などを異物とみなして攻撃する現象のこと。移植後すぐに発現する急性GVHDの症状は、皮膚の発疹、黄疸、下痢などさまざまである。
「不妊になっても命が助かるならいい」とは思えず、ひたすら日記を書いた
私には、移植の前後で悩んでいたことがあります。それは「移植をすると不妊になる」ということです。移植を受けることが決まってから、初めてそのことを知ったのですが、それまではどの先生も教えてくれませんでした。落ち込ませないようにしよう、という思いやりかもしれませんが、現実を早くきちんと教えてほしかった、と思います。
不妊になると知った日からすごく悩み、毎日泣きました。「不妊になっても、命が助かるならそのほうがいい」ということは頭では分かるけれど、「子どもが産めなかったら意味がないよね」と思う自分もいる。生きる可能性があることを心から喜べない、移植することを心から喜べなくて辛かったです。
当時は、そんな自分を励ますために、ひたすら日記を書いていました。「子どもができなくても、生きていればいいじゃないか。それが本当だろう」「子どもができないのは私だけじゃない」ということを毎日日記に書いて、自分に言い聞かせていました。こういったことを周りの人にあまり話したくなかったし、話しても心配させるだけだから自分で解決しなければと、毎日同じことを書いて、ひたすら自分に言い聞かせていました。
移植した後も「これでよかったのかな?」と悩み続けていました。でもある時、付き合っていた彼に言われた言葉で、その悩みは一瞬で吹っ切れました。私が、子どもができなくても生きていればいいじゃないか、と日記で自分に言い聞かせてきたことを話したら、「間違っていない、それでいいんじゃないの?」と言ってくれたんです。心から前向きになれなかったものが、彼に話して、分かってもらえたことで、突然吹っ切れたんです。一番分かってもらいたい人に言われたのが、たぶん良かったのでしょう。結局、その彼とは別れましたけれど(笑)。
最近結婚しましたが、子どもができないことに引け目を感じることは一切ありませんし、夫も別に何とも思わないと言ってくれています。私のわがままを受け入れてくれる大きな人です。
当時の日記は、何冊にもなりました。たぶん実家を探したらあると思います。移植で入院する時、誰かに見られたら嫌だと思って「もし死んだら、これを全部燃やしてね」と書いて、誰にも言わず置いてきました。もしかしたら、帰ってこられないかもしれないと思っていたんです。
もし「余命がない」と言われても、最後まで光を見つけられるような人間になりたい
移植後、退院しても当初は手がブルブル震えて、足もカクンカクンして、「こんなので退院して良かったの?」「こんな状態で私、病院に通えるのかな?」とすごく不安でした。
後遺症で体力が戻らず、数カ月はきつかったですが、少しずつ体調が良くなってきて、移植2年後には居酒屋で働き始めました。お酒が好きで、料理を作るのも大好きだからです。働き始めるにあたって、病気のことを店長に話したら、「やれるところまでやってみれば?」と言ってくれました。男性ばかりの職場で、最初はみんなについていけるかどうか不安だったけれど、やってみたら意外とできて(笑)。今では「働かなきゃ。毎日の生活がかかってるんだから、きついとか言っていられない」と思って働いています。
働く一方で、患者会のイベントがあれば、なるべく参加するようにしています。病気になって、親や友達に心配をかけたことや先生に迷惑をかけたこと、看護師さんにいつも話し相手になってもらったことなどを思い出し、「ああ、みんなに感謝しなくちゃいけないな」と気付き、初心に帰ることができる、私にとってそういう場所です。不妊という結果がついてきたから、できれば病気なんかしたくなかったけれど、病気になって築いた人間関係、先生や看護師さんと、打ち上げでお酒を飲めたりするのは特権だ(笑)、と思います。
今、CMLの治療をしている方には分子標的治療薬があって、私は本当にうらやましいです。「もうちょっと時代が遅れて発症したら、私も不妊にならなかったんじゃないかな」と思ったりします。でも、今の患者さんも悩んでいて、辛くて大変なんです。きついんです。今、私が苦しんでいる当人の気持ちになれるかといったら、なれないかもしれないけれど、経験したからこそ、きつい気持ち、辛い気持ちも少しはわかる。
私は、「あなたの余命はあとわずかです」ともし言われても、最後までその中で少しでも光を見つけられるような人間になりたいと思います。生きている間だけでも有意義に過ごそう、という前向きな気持ちを持っていれば、病気も吹き飛ばせるんじゃないかと思うし、もし吹き飛ばせなかったとしても、不幸せじゃなくて、幸せだったという実証になるんじゃないでしょうか。
前は死ぬことが怖かったけれど、今は別に怖いとは思わないです。もし病気で死ぬとしても、それは「ああ、寿命か」と素直に受け入れられる、そんな感じがします。若くして亡くなったとしても、それは悲しいことではなく、その人の人生をやり終えた、ということだと思います。命ある限り、一生懸命生きぬく事が大事なのではと思えるようになりました。
造血幹細胞移植で入院した時に持参した健康サンダル
移植で入院する時、「入院する時は健康サンダルだ」と思って、健康サンダルを買いました。健康にいいと思ったんです。
無菌室にいる間は病院のスリッパを履いていましたが、無菌室を出て健康サンダルを履くようになったら、足の裏がきれいな水玉模様になっていることに気づきました。移植後で血小板が減っていたため、内出血を起こしたのです。
びっくりして、「すごいな。こんなに規則正しい斑点が…」「これ、病気の症状?こんな症状あるんだろうか?」と思って看護師さんに見せたら、「もう、健康サンダルなんか履いたらいけん!」とすごい剣幕で怒られて。「だって、知らないもん」と思いながら、怒られていました(笑)。
移植後にどんな副作用が出るのか、事前にあまり聞いていなかったので、症状が出るたびに「えっ、こんなこと聞いていなかった」と驚いて…。入院中、看護師さんにはいつも話し相手になってもらったこと、そして先生にも沢山わがままを聞いてもらったこと、今でも感謝しています。
足裏がきれいな水玉模様に…!