「悩んだことも多かったけれど、息子はきっと大丈夫だと思います」
- Tさんのお母様/息子さんが4歳のとき診断され現在19歳、お母様は現在52歳(2022年11月時点)
- Tさんのお母様へのインタビュー
◆息子の幼少期は、とても身体が弱い子でした
今は親元を離れ、大学のそばで下宿しながら学生生活を謳歌している息子。
今でこそ痩せなさい、と言いたいくらいの立派な体格ですが、小学校4年生くらいまでは周りから心配されるほど痩せていました。小さいころは風邪をひきやすかったり、どちらかというと身体が弱く、そういう意味で手の掛かる子どもでしたが、私は、当時にしては珍しく在宅でできる仕事だったので、仕事は続けることができました。
1歳半のときに40度の高熱が出て、近所の小児クリニックを受診しました。その時に両手が左右に震える痙攣があり、先生に伝えるとすぐに救急車を呼んで大きな病院へ運ばれ、10日間くらい入院しました。けいれん重積を起こしていたのですが、脳波だけ検査しMRIは行いませんでした。その時は結節性硬化症という診断はなく、熱性けいれんと診断されました。
◆なにかおかしいと思い、診断されるまで
3歳~4歳くらいのときに皮膚の病変があったこと、そして母親の勘として、何かおかしいと感じることがありました。また、発達が遅いかもしれないと、インターネットで検索し、てんかん症状はないけども、もしかしたら結節性硬化症ではないかと考え小児クリニックの先生に相談しました。
医師は「発達も順調だし、個人差レベルなので、それはないと思う。でも、どうしても気になるなら医大に行けば専門の先生がいるから紹介しますよ」と言ってくれたので、その場で紹介をお願いしました。
紹介先では、白斑を調べるウッドランプ(紫外光)で診た所見から結節性硬化症の確定診断がされました。やはりそうだったのかと思うとともに、実際がすごくショックでした。正直この先どうしていけばよいのかと悩んだこともありました。この子のこれからの幼稚園や学校生活についてどうサポートしていったらいいのか、また学校への伝え方等、いろいろと悩みました。
◆幼稚園時代は子どものそばにいられるように工夫しました
幼稚園の時は大きな症状もなく、先生方には言いませんでしたが、やはり心配だったので、役員に立候補しました。役員であれば幼稚園にしょっちゅう行く用事ができて子どもの傍にいられる、何かあってもすぐにフォローできる、そう思ってそこから私の役員人生が始まりました。
在宅の仕事だったため、昼間は幼稚園で役員のこと、夜に仕事をこなしてというバランスでなんとかできました。
役員もどうせやるならと、年長のときにはPTA会長を務めました。たまたま新任の園長先生が着任されたところで、一緒にいろいろと新しいことを始めることができたのは、今となってはいい思い出です。
◆小学校で、てんかん発作がはじまる
小学校に上がり、いつ発作が出るかわからない不安な状況の中、小学校1年生から2年生になるころだったと思いますが、初めてのてんかん発作がありました。その時は「とうとう来たか…」と思うと同時に、発作で苦しんでいる小さな息子の姿を見て、できることなら自分が代わってあげたいと思っていました。
小学校では、要所要所で学校のお手伝いを出来るところはしつつ、遠足などのボランティアなどは、積極的について行きました。また、小学校では保健室の先生に状況をお話しし、もし何か変わったことがあったら連絡くださいとお願いしたり、お願いをして発作時の座薬を預かっていただいたり、安心できる環境を整えることを努力しました。学校に対しても、発作に対応してもらえるよう、てんかんについてだけは学校に伝えていました。その頃は、てんかん発作は多いときは毎日あり、朝に起こることが多かったので、発作があると少し休んでから遅れて学校に行かせたりという状況でした。
息子が好きで入っていた少年野球のチームでは、コーチに事情を話し、自分も常に一緒について行き、今までしたこともない野球を自分のグローブを買って手伝ったりもしました。しかし朝早く起きていく必要があり、練習中に発作がおこることも多く、野球を続けたいという息子の希望もあり週1回の教室に切り替えました。
◆治療薬の選択と発作が軽減するまで
主治医の先生には、薬を飲めばてんかんはコントロールできると言われていたので、簡単に考えていたのですが、最初のお薬は量を調整してもあまり効果がなく、次は別のお薬を足して、という形で試行錯誤を繰り返していました。医師だけに頼るのではなく、自分でもインターネットでてんかんについて調べ、医師に処方を検討してもらうこともしました。薬の調整をおこない、てんかんをしっかりコントロールできるようになるには3年くらいかかりました。
よくお話させていただく専門医の先生が、「病気は自分のことであり、親が出すぎるのも良くないけれど、医者にお任せではダメで、自分が勉強していかなきゃいけない」とよく患者家族におっしゃっているように、やはり常に当事者意識を持ってないといけないんだなと思います。
日本は文化的に、医師の言うことは聞かなければならない、と受け身になりがちですが、大切な家族のため、自分のために言うべきことは言うという当事者意識は大切だと思います。きっと先生からは、うるさいお母さんだな!と思われていただろうな、と思いますが、そのくらい必死だったんだと思います。この頃が自分にとっても一番大変で、自分もパニック障害になり、電車などに乗れなくなって、その数年間はどこに行くのも自転車で出掛け、雨が降ったら外に出ず、自転車で行ける範囲内のところにしか行きませんでした。
◆病気をどう伝えるかで悩みました
子どもが大きくなるにつれ、いつ、どんな風に本人に病気について伝えようかと、主治医の先生に何度も相談しつつ悩んでいました。ところが、それは思いがけない形でやってきました。
息子が中学1年生頃のある日の診療のとき、「〇〇くん、あなたの結節性硬化症ね...」と先生が口を滑らせてしまったのです。今まで告知の相談をしてたのに、とその瞬間思いましたが、そんな私の心配をよそに本人は至って冷静に受け止めてくれて、私は助かりました。
◆患者家族会との関わり
息子が小さなときから患者家族会に参加させていました。
本当にいろいろな症状の方々がいる中、幸い息子は発作も治まり私の負担は少ないので、少し時間がある私にできることをしようと思ってお手伝いしています。専門医の先生も参加されるため最新の情報に触れられる、自分も困ったことがあると相談でき、反対に困っている人の役にも立てると考えています。
たとえば会の参加者はお子さんが患者さんであるお母さんが多く、もちろんお子さんへの支援も大切ですが、お母さん方へのサポートも必要だなと感じたり、お互いの立場がわかる当事者だからこそ助け合えることがあると思っています。
一方でそういった当事者同士でのサポート以外に、例えば病気の状態によって使える支援制度など、もう少しわかりやすくなると有難いと思います。特にお母さん方への支援や、多様な症状に対応する支援など、公的な支援も含めてまだ手が届いてない部分もあるのかなと思っています。
◆息子の将来について
病気があったことが良かったとは言えませんが、1歳半のけいれん重積のとき、生死をさまよっていた可能性もあり、それを乗り越え今までやってこれたことが幸せだったと思います。息子はそういった強運をきっと持っていると、勝手ながら思っています。実は最近遺伝子検査で新たな事実がわかったのですが、主治医の先生も、「医療の進歩が目覚ましいので、移植とか、再生医療の分野とか、この先また違った症状が出てくることがあろうときには、もっと違う選択肢もあるだろうと僕は信じています」という言葉がありました。そんな風にいろいろと考えてくださる先生や、病気だからこそ出会えた方々もたくさんいて、多くの方に支えられていることを感じています。
なにより、大学進学に際してどうしても家を出たいと息子が言い出したとき、私が心配すぎて一人暮らしなんてさせられるわけがないと思っていたのですが、親心としての心配は残るものの、幸いにもいろいろと安心できる環境が重なったため、これならばと決心することができました。
息子が親元を離れて自立して生活することになるなんて、まったく思ってもいなかったことができたんですから、きっと、この先も息子は元気にやっていけるんじゃないかなと思っています。
あとは、私の役目は息子を自立させることだけだと思っています。