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慢性骨髄性白血病(CML)の情報サイト

慢性骨髄性白血病(CML)発症後年数2年のN.M.さんの体験記。勤務先の健康診断がきっかけでCMLが判明。造血幹細胞移植を受けた後、現在は自宅で移植後の後遺症の治療をしながら仕事復帰に向けて準備中。造血幹細胞移植の後遺症とどう向き合い、生活や仕事の不安をどのように乗り越えて生活を送っているのか体験記を紹介したページです。

N.M. さん

N.M. さん (31歳)

CML発症後年数:2年
造血幹細胞移植を受けた後、現在は自宅で移植後の後遺症の治療をしながら仕事復帰に向けて準備中
(2011年10月取材)

取材者より

小柄で笑顔が素敵なN.M.さん。
体調がすぐれず、「うつ病かもしれない」と思っていたら、まさかの白血病宣告、そして造血幹細胞移植。働き盛りの休職を余儀なくされ、妊娠・出産の可能性も奪われそうな状況になっても、不安や恐怖に押しつぶされることなく、「できそうなことはやってみる。頑張ったら頑張った分だけきっといいことがある」と、目標に向かって努力を重ねられてきました。
CMLという、人それぞれ進行度が異なる病気になって、以前より人と自分を比べたり迷ったりすることが少なくなったというN.M.さん。「今の気持ちで仕事に復帰したい」という言葉が印象的でした。

病気に前向きでいるために決めた「笑顔でいること」

最初に異常がみつかったのは2009年9月、勤務先の定期健康診断でした。 当時、だるいとか、朝起きられないといった症状があり「うつ病かもしれない」と思っていたので、「白血球に異常がある」という結果は意外でした。「うつ病じゃなかったんだ」と、原因が分かってちょっと安心したのを覚えています。そのあと、大変な治療が待っているとは思いもせずに…。
再検査、骨髄穿刺の結果、フィラデルフィア染色体が検知され、さらに骨髄性とリンパ性、両方の白血球異常が存在していることが分かりました。なかなか診断がつかなかったのですが、最終的には急性転化期慢性骨髄性白血病(CML)と診断されました。私の遺伝子異常のタイプはマイナー中のマイナーで、世界に20人程度しかいないそうです。
診断されたとき、先生から言われたのは「何もしなかったら余命2ヵ月」。何もしなかったら、という言葉があったので、聞いた瞬間のショックは無かったです。 でもその後、「この状況から逃げたい」と思い悩む期間が長くありました。「病気になる前には戻れない。ドラえもんはいないのだ」と分かっているのに、つい「あの時、ああしていれば」と、くよくよと考えてしまう日々でした。
その一方で、「病気を良くするためにはどうしたらいいのだろう?」と一生懸命考えました。落ちるところまで落ちたから、あとは上がるしかない、と。周りをみていたら、隣のベッドに入院していた子が、毎日大好きな歌手にファンレターを書いていました。その子は白血病の治療がとてもうまくいき、退院できるまでに回復していました。それで私も「ああ、良くなるためには心の支えがいるんだな」と思ったのです。私が大好きなマイケル・ジャクソンは残念ながら亡くなったばかりだったので、私は手紙の代わりに笑顔でいることにしました。

造血幹細胞移植をしたら、すっきり楽になると思っていたけれども

ドナーが見つかり、造血幹細胞移植を受けたのは2010年6月でした。
「移植前の化学療法や放射線治療はきついよ」とみんなに脅されていましたが、身体的なきつさより、精神的な不安、恐怖感のほうが私にとっては辛いものでした。無菌室の中、免疫力の落ちた状態で「この吐き気は一体いつまで続くのか?」といった先の見えない不安、目に見えない菌に対する恐怖…。同室の方が再発の話をしているのを聞いて、パニックになってしまったこともあります。母に「再発というのは、1回治った人が言う言葉です」と言われて、我に返りました。
移植の成功率は50%と言われていました。先生は「成功率何%」とおっしゃっても、患者にとっては0%か100%、どちらかしかないんです。だから、考えてもしかたがない。私は「絶対に無菌室から出られる」って信じていました。
今は退院して、自宅で移植後の後遺症の治療をしています。移植を受ける前は、「移植したらすっきり楽になるだろう」と思っていたのに、実際は退院してからが大変でした。抗がん剤やステロイド剤の副作用、GVHDのため健康状態に波があり、体調がなかなか落ち着きません。今もいつ終わるか分からないGVHDの症状に悩まされています。以前は周囲の人に「白血病=死」と思われるのが嫌でしたが、今は「移植=完治=元通り」と思われてしまうことに、自分の中で少し葛藤があります。
それでも、今生きているということに対して、服用している分子標的治療薬が保険適応で本当に良かったと思います。15年前だったら私は生きられなかったかもしれませんから。

*GVHD(Graft Versus Host Disease: 移植片対宿主病)
造血幹細胞移植をした後に、ドナーのリンパ球が患者の内臓などを異物とみなして攻撃する現象のこと。移植後しばらく経ってから発現する慢性GVHDの症状は、口の中の痛みや違和感、眼の乾燥感、皮膚の乾燥やこわばり、呼吸困難、慢性の下痢などさまざまである。

※この記事は、2011年10月当時の取材に基づいています。

できないと言われていたことを実現し、病気を克服する自信がついた

私には病気になる前から、「頑張ったら、頑張った分だけ得られるものがある」と信じている部分があります。
造血幹細胞移植を受ける前、主治医から「99%閉経する」という話がありました。私は未婚なので、受精卵の凍結保存ができません。ショックを受けて「未受精卵でも保存する方法が何かないか」と、インターネットで一生懸命探し始めました。先生方が見るような海外の論文サイトまで見て、今振り返ると、あの気力はどこからきたのだろう、と不思議に思うくらいです。やっと、東京のあるクリニックで未受精卵を凍結保存できそうだ、という情報にたどりついたのですが、主治医に「私、これできますか?」とうかがったら「うーん」と、なかなか了解が得られません。「どうしてだめなの?」と、主治医とはかなりぶつかり合いました。
そんな話し合いを繰り返していたあるとき、血液疾患の未婚女性でも未受精卵凍結保存ができる学会を見つけ出しました。その学会に参加している施設が通院が可能だったため、念願の卵子の凍結保存が実現しました。とてもうれしかったです。この一件で、「病気でも、頑張ったらいいことあるじゃない」と、治療に対する姿勢に弾みがつきました。
「治療も絶対うまくいく」という自信もわきました。
この一件を含め、入院生活では、医師や看護師などスタッフの方々とのコミュニケーションを学びました。血液疾患は入院期間が長いので、特にコミュニケーションは大事です。話したいことをメモしておいて、きつくなる前に、ちょっとしたことでも「今、いいですか?」と、同じことを医師、スタッフの方、みんなに同じように繰り返して話す。うるさい患者だっただろうと思いますが、そうすることで、早めに対処していただけました。「同じように話しても、人によって伝わり方が違う」ということは、CMLになってからの学びです(笑)。
私は治療において患者ができることは、自分の状態をきちんと周囲に伝えること、感染症などに気をつけることと、心の健康、ユーモアを保つことじゃないかな、と思っています。

心の健康と言えば、入院中のあるとき、友人が「フランス人はよく人に会うと “La vie(ラ・ヴィ)?”と聞くんだよ」と教えてくれました。“La vie”は「人生」という意味をもつ言葉ですが、歴史的に戦争が多かったフランスでは、みな明日はどうなるかわからなかった。だから人と会うと、「今日は充実していた?」という確認の意味でお互いに「La vie?」と聞くようになったそうです。
その友人は、「今はきついけど、きついなりに“La vie”だったらいいじゃない?」と話してくれました。
化学療法をしている間、味覚が変化してしまい、食事が嫌で食べられず困っていました。そのとき、先生が許可してくれる範囲で工夫してみよう、とパンにチョコレートをのせてチョコパンにしてみたら少し食べられて、ささやかですが幸せを感じたことがありました。こんなふうに“La vie”を求めることが、私のCML治療の大きな支えになってきたように思います。
今の目標は仕事に復帰することです。私が入院したとき、先輩方や職場の仲間が骨髄バンクに登録したり、献血に積極的に参加したりしてくださったと聞いて、その気持ちが本当にうれしかった。今では少しでも成長して恩返しして、社会に貢献したいです。再発のことを考えると怖いです。
でも、いつ起こるかわからないことを心配してくよくよするのはもったいない。だから私は、今は5年後の目標を定めて、逆算して3年後、1年後、半年後の具体的な目標を立てて、1日をいかに充実させるかを重視しています。これから先に、どんなことが起こるかは分かりませんが、ベストを尽くした結果なら受け入れられるかな、と思っています。

「La vie」を教えてくれた友人がくれたマスコット

「La vie」を教えてくれた友人がくれたマスコット。私に似ているそうです。

一時退院のときに姉が買ってくれたロングブーツ

お正月に一時退院した時、「靴ずれしたら感染症になるかもしれないから、もうヒールのある靴は履けないな」と思って、足に優しいスポーツメーカーのロングブーツを姉に買ってもらいました。 病院に戻ってから、母は「荷物が多いと掃除の邪魔になるから」と言って、ブーツを持って帰ろうとしました。院内ならスリッパがあればいいでしょう、と。でも、私は家に帰る靴がなくなると、何か良くない方向に進むような気がして、「病室に置いたままにしてほしい」と頼みました。周囲の人は、私が脱走して天神などに遊びに行くつもりなのだと思って、「脱走ブーツ」「逃走ブーツ」と呼んでいたようです。 CMLになってから、迷うことが減りました。その場で決めないと、次はいつそのチャンスがくるかわからないから…。このブーツを買ってもらうときも、即決でした。

一時退院のときに姉が買ってくれたロングブーツ

「脱走ブーツ」と呼ばれていました。

CML発症後年数 0~2年

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(CML発症後年数:1年未満)

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