慢性骨髄性白血病(CML)発症後年数2年の新田一郎さんの体験記。CMLと診断されて分子標的治療薬で治療を始めて約2年、分子遺伝学的に深い奏効(DMR)して約1年になる。治療を続けつつも、海外の大学院へ留学する予定。28歳と若くしてCMLを発症してから病期とどのように向き合い、治療や検査、薬の副作用、生活や仕事の不安をどのように乗り越えて生活を送っているのか体験記を紹介したページです。
新田 一郎 さん (30歳)
CML発症後年数:2年
CMLと診断されて分子標的治療薬で治療を始め、約2年経過。分子遺伝学的に深い奏効(DMR)して約1年になる。治療を続けつつも、海外の大学院へ留学する予定。友人と社会貢献のNPOを立ち上げるなど、精力的な日々を送っている。
(2013年6月取材)
取材者より
分子標的治療薬による治療を受けてから、1年で分子遺伝学的に深い奏効(DMR)に至った新田一郎さん。
治療と仕事を両立させているばかりでなく、海外の大学院への留学を実現させ、NPO法人の立ち上げに関わるなど、意欲的に生活しています。
CMLと診断された日、会社に行かずにそのまま小旅行へ行ってしまうような自由奔放さと、長く治療が続く現実を見据えて、海外移住も視野に入れて人生設計を引き直す冷静さと行動力を持ちあわせている、魅力的な方でした。
28歳と若くしてCMLを発症したことを悲観せず、「結果的に、ツキが回ってきた」と目を輝かせる彼。知性と生きるエネルギーに圧倒されました。
プロポーズ直後の告知
CMLと診断される、前年の夏くらいからでしょうか、肩こりや疲れを感じるようになっていました。負荷が重いコンサルティングの仕事を続けており、さらに案件の佳境でバリバリ激務をこなしていた時期だったので、そのせいかなあ、と軽く考えていました。
ところが、2010年9月の定期検診で白血球の値が9,000/μLに。「風邪や虫歯のときもそれくらいには上がるらしいから」と冷静に捉える一方、インターネットで白血病について検索したりもしました。祖父母は被爆者健康手帳を持っており、白血病とは無縁の立場ではない――「ひょっとしたら」という不安がありました。
翌年1月、再検査を受けると案の定、白血球の値は13,000/μLに上昇していました。「すぐ専門病院に行ってください」と言われ、2月に大学病院で検査を受けました。その時点でCMLの可能性があることを告げられました。
最初に相談したのは、医師として働いている幼馴染の友人でした。「もしCMLなら、今の時代、薬さえちゃんと飲んでいれば大丈夫。心配しないで、ちゃんと働いて薬代を稼ぎなさい」という返事でしたっけ(笑)。でも、同棲していた彼女、つまり現在の妻にはなかなか告白できませんでした。ちょうど前年の冬、プロポーズしたばかりだったからです。
「どう切り出そうか…」。かなり悩みました。
結局、彼女に打ち明けたのは、再診日の数日前。さらっと受け止めてくれたのが嬉しかったのを覚えています。「でも、死なないんでしょ」「うん、たぶん死なないと思う」。そんな彼女でしたが、再診当日は会社を休んで病院まで付き添ってくれました。
「検査の結果、やはりCMLでした」と主治医から告知され、治療薬は、以前からある分子標的治療薬と新しい分子標的治療薬が2つ、合計3つの選択肢※があることを教えられました。強く印象に残っているのは、「新しい薬から始めてもいいし、以前からある薬から飲み始めてもいい。どれで行きますか?」と聞かれたこと。「え、薬の選択を委ねられてしまうんだ?」と、面食らいました。「新しい方が効くんですか」と尋ねると、「ちょっとは効くが個人差もある」とのこと(笑)。選択にあたってのガイドラインはありませんし、正直、困りました。
すぐ確認したのが、仕事の関係でたまたま知っていたPMDA(独立行政法人 医薬品医療機器総合機構)のホームページです。副作用や奏効に至る確率などが詳しく掲載されており、とても参考になりました。ここで3つの薬について調べ、選びました。
※この記事は、2013年6月当時の取材に基づいています。
CMLと告知された日は「やってられるか」という気分で、会社を休んでそのまま彼女と箱根へ一泊旅行に行きました。自分では告知を冷静に受け止めたつもりでしたが、今思い返せば、ショックを受けていたのかもしれません。2月の箱根はとても寒かったはずなのに、そういう記憶が全くありませんから。
最初に薬を飲んだのは、一泊して翌朝、箱根登山鉄道に乗る前。少し気持ち悪くなったのを覚えています。電車で酔ったせいなのか、それとも副作用だったのかどうかは分かりません。
その後は、ほとんど毎日薬を飲みながら通勤しました。服用は昼食後。朝食は基本的に食べないし、夕食は付き合い等で一杯やることも多いからです。3ヵ月目に1度だけ吐きました。はっきりした副作用が出たのは、そのとき一度だけ。ただ、自分の場合はおにぎり1個で済ますなど、食事が軽いと吐き気が出やすいようです。以後、昼食はしっかり食べるようにしました。そのほか、「食後は歩いたほうが調子いい」など、体感としてわかったことを実践しています。
ほかに思い当たる副作用といえば―― もともと色黒だった肌が白くなったことでしょうか。高校時代の部活仲間に会うと「真っ白だな、大丈夫?」と心配されるほど。しばらく戸外で運動していないせいかもしれませんが(後記:その後、山歩きをしたら焼けたのでただの運動不足のようです)。
みんなが薬を飲みつつどんな生活しているのか知りたくて、患者さんのブログをよく見るのですが、人によってさまざま。「カレーやとんかつなど、脂っこいものをがっつり食べたほうが調子がいい」とコメントすると、「いや、自分はあっさりしたものでないと気持ちが悪くなる」という返事が返ってきたりします。
そうこうしながらも、仕事は続けています。ただ、今後何が起こるか分からないと考えたので、万が一のときのために部下をつけてもらいました。あと、病気を理由にといっては何ですが、無理をせず上手に力を抜くようにもなりました。「今、ちょっと体調が…」「医者が出張するなと言っていて…」という具合に(笑)。そもそもコンサルタントは自分の裁量で仕事をすることが多い職業ですが、病気になって以来、納得できる仕事をしよう、という気持ちが強くなりました。そうしないとストレスがたまりますから。
病気になって、親に対して優しくなった気がします。病気のことを告白したとき、一番動揺したのは親でした。「そんな体に産んでごめんね」と母親に泣かれたときは若干参りましたが。「白血病=死」と考えている世代ですし、無理もないのですが。定期的に連絡するようにすると、少し安心してくれるみたいです。
病気になって、いい意味でも悪い意味でも「わがまま」になった気がします。今やれることはやっておきたいと考えるようになりました。確率的には低いですが、交通事故よりは高い確率でもしかしたら死んでしまうかもしれないわけですから。「10年後を語ってもしゃあない、最大3年先くらいまで予定を立て、あとはその都度考えればいいんじゃないか」と思うのです。
病気になってから決意したことのひとつに「海外大学院での修士号の取得」があります。すでにある大学に合格し、この秋から休職して留学する予定。テクノロジーに強い大学なので、必修を終えたらヘルスケアを副専攻で学びたいですね。自分がCMLを発症したこともあり、いずれこの経験を活かしてヘルスケア・バイオテクノロジー関連の仕事をしよう、と考えています。
以前は、海外留学にはさほど関心はありませんでした。日本で働くのであれば、投資するだけの見返りはない、と思っていました。ところが、CMLになって俄然、チャレンジしてみたくなりました。将来海外に住みたくなったとき、国際的な職場で仕事を得るには著名大学の修士号があると有利。持っていれば一種の「パスポート」にはなると捉えています。
なぜ、CML発症を機に海外で働くことを考え始めたか…。日本の高額療養費制度や健康保険制度は世界的に見てもすばらしいと思いますが、医療費の財政的な観点からは矛盾を抱えています。将来、万が一日本が今の制度を維持できなくなったら、と、最悪のケースも考えてしまって。職業柄でしょうか(笑)。調べてみたところ、海外にも優れた制度を持つ国があり、万が一の事態を乗り切るのに、海外移住という手段も持っていたほうがいいのではないか、と考えました。
ただ、いろいろ考えたようですが、何はともあれ集中して挑戦できる目標が欲しくなった、ということではないかと今は振り返っています。
CMLの発症後、NPO法人の活動にも関わるようになりました。中心的な役割を果たしているのは友人で、自分は経営についてアドバイスしたりする立場ですが、きっかけはやはり病気かもしれません。CMLを発症して、その後間もなく東日本大震災が起きて、それで大学時代の友人と「久しぶりに会おうよ」という流れになって…。
彼らは学生時代、社会問題や国際問題に興味を持っていた仲間たち。でも、今はみな普通の会社員をしている。「今、東北に行くボランティアはいっぱいいるけれど、地元東京にも困っている人たちはいる。そうした人々と、自分たちのように社会貢献したい東京のビジネスパーソンとをつなぐブリッジがあったら―― 」という話で盛り上がって、「じゃあつくろう!」と、勢いでNPOを立ち上げました。
これまで、精神障害を抱える子どもたちのサッカーチームの練習を手伝うプログラムや、老人ホームでボランティアをするプログラムを手掛けてきました。大切なのは、「身近にも、困っている人が結構いるんだ」という事実を知ること。そこで触発されて、「もっといろんな手助けができる」と自分なりの活動をする人が出てくるといいですね。
気づいたら逆転している! 病気になって見出した「運」
今のところ治療は順調に進んでいます。1年でMMR、それから半年でCMR。早いものでそれからもうすぐ1年になります。いずれ子どもがほしいので、ドラッグオフをしたい。主治医から「男性側が服薬している場合の影響は、症例が少なくてよくわかっていないものの、服薬中に子どもをつくることはお勧めできない」と言われているからです。
若くしてCMLを発症したことについては、とくに思い悩むことはありません。自分が悪いことをした結果なら別ですが、「運だった」と捉えていますから。人生の「ハードル」でもないし、「ギフト」のような前向きなとらえ方もしていない。たまたまこういう「条件」を与えられたのかな、と思っています。
CMLを発症しましたが、なぜかいろいろ「ついているな」と感じることもあります。勤め先が大企業でなかったこと、コンサルタントという、自由がきく仕事をしていたこともよかった。しかも、ある程度スキルがついて、評価が固まったタイミングでの発症でしたから、要領よくこなす方法もわかりつつあった。そういうことも含めて「運」なんですよね。麻雀みたいに、「1回ビリになったけど、打ち続けているうちに気づいたら逆転してるじゃん!」という感じ(笑)。病気になって、逆に生きる勢いが加速した―― そんな気がしています。
結婚式のために買った「とっておき」
この靴は、ずっとしまいこんでいましたね。今年初めて履きました。やはり履き心地はバツグンです。
じつはこれ、結婚式用に買ったものです。妻が自分でウェディングドレスを買って、「あなたも好きな靴を買ったら?」と言うので、自分で買いに行きました。
結婚式はレストランを貸し切り、会費制でやりました。司会も自分たちでやりました。「そろそろ入るので、みなさん拍手をお願いします」と自らアナウンスし、入場。新郎新婦のプロフィールも自分たちで喋り、一番二人が喋っている会でした(笑)。
妻と新しい人生を歩んでいく。この靴は、やはり思い入れのある「とっておき」です。
結婚式を思い出す、アルマーニ®の靴!